弟の街とメリーティラー 

16日、例によって今は亡き下の弟の街を訪ねた。彼が遺体で見つかったのは13日の金曜日だから例年13日に行くのを目標にしているが、今年は天気が悪かったのでこの日にした。早いものであれからもう14年が経った。小田急線よみうりランド前駅で降り高石神社めがけて丘を登っていく。街はずいぶん変わってしまったが、行けば何かしら発見がある。なかなか魅力的な街であることもわかってきた。

DSC_2863bg.jpgDSC_2878bg.jpg

今年はいつものコースではなく、地図を確認して少し線路沿いに行きそこから丘の方へ上ることにした。すると見慣れた角のガソリンスタンドの隅に小さな石碑があるのが目に留まった。碑銘は「農機具之元祖 細王舎創業之碑」。脱穀機や小型耕耘機などで国内第1のシェアを持ち、その製品はアジア諸国にも輸出された農業機械メーカー・細王舎のここが跡地だったのである。と言っても細王舎の名前は知らなかったが、戦後いち早く米国のメリー・ティラーと技術提携し、取り回しのよい空冷式エンジンの小型耕耘機メリーティラーを廉価で製造販売した三代目社長・箕輪嘉夫のことは、娘の箕輪徳子さんが写真展で紹介していたので、ある程度知っていた。国産初の小型耕耘機メリーティラーは戦後復興期の食糧増産要求によく応え、その名は小型耕耘機の代名詞となったが、細王舎は後に小松製作所と提携し今はコマツゼノアとしてコマツグループの一翼を担っている。

DSC_2865bg.jpgDSC_2872bg.jpgDSC_2894bg.jpgDSC_2889bg.jpg

さて、高石神社への道はこちら側のほうが細く曲がりくねって分岐が多い。山道がそのまま舗装されている感じだ。そこに一応のお屋敷が建っている。太陽が出てないので方角が分からない。適当に歩いて神社の前に出、そこから下って弟のアパートを目指した。外階段を上がって咲き残る白い八重桜の写真を撮る。アパートの北側、かつての果樹園が宅地に変り、子供たちが遊んでいた。いつものように遊水池を見て、弟の友人が住んでいたもう1つのアパートを見に行く。この友人も弟の死後、自責の念に駆られたように会社を辞め、消息不明となった。今まで人の気配がなかったアパートの窓に、今日は珍しく電灯が点っていた。隣の土建会社の窓から中の額が見え、そこには弟の名前の1文字、「道」とあった。弟はこのことを知っていたのだろうか。前にも書いたが、弟の魂は故郷に帰らず、この辺りを彷徨っているというのが私の考えである。だからこそ、こんな偶然のような出来事にも意味を感じてしまうのだ。

弟を探す旅はまだもう少し続きそうだ。

DSC_2900bg.jpgDSC_2899bg.jpgDSC_2922bg.jpg
DSC_2915bg.jpgDSC_2926bg.jpg
DSC_2950bg.jpgDSC_2943bg.jpg
       

スポンサーサイト

弟の暮らした街 

DSC_1988bg.jpg DSC_1965bg.jpg

13日の日曜日、弟の命日みたいなものだから、毎年訪ねている彼の街を今年も訪ねた。彼が亡くなって今年で13年が過ぎた。昨年、父の七回忌とともに13回忌を行おうとしたが、母の具合が思わしくなく中止したのである。案の定、母はその翌月に旅立ってしまった。
さて今年、例によってよみうりランド前で降りて長い坂道を上り、高石神社の下にある彼のアパートを見にいく。途中の三叉路で毎年のようにお地蔵様に手を合わせる。どういう由来なのか、子育て地蔵の子の顔が欠けているのが気になる。閑静な住宅街の中を上り坂が続く。アパートでは弟がいた部屋にも人が入っているようで、洗濯物が干してあった。きれいなクリーム色に塗り替えられ、昔と同じくプロパンガスの40キロボンベが4本並んでいる。階段のところの八重桜は枝がだいぶ切られていたが、それでも当時と同じ桜が咲いていた。弟が発見された日の次の日曜日、読経もなく荼毘に付したが、抜けるような快晴の青空にこの桜が2階廊下を覆うように枝を伸し、満開の花が哀しかった。

DSC_1972bg.jpg DSC_1950bg.jpg DSC_1977bg.jpg DSC02522bg.jpg

その日、奇妙なことが起きた。80過ぎの大家さんがアパートへ一緒に行きたいといって車に乗ろうとした時、彼女の指がドアのどこかに挟まったのである。あり得ない事故だった。悲鳴を上げたがなかなか外れない。ほんの2、3秒の出来事だったが、弟が彼女を引き留めているようにもすがりついているようにも思えた。弟は彼女を母か祖母のように慕っていたのである。弟の死を共に悲しんでくれた大家さんは、父が亡くなった年に亡くなっていた。してみると、年代は父に近かったのだろう。今回、思い切って家を訪れて事情を聞き、焼香することができた。あの時は大家さんにも息子さん夫婦にも大変世話になってしまった。これでようやくなすべきことの一部が果たせたように思う。

DSC_1970bg.jpg DSC_1979bg.jpg DSC_1994bg.jpg
     
大家さん宅を出て小川を渡ると雲の厚い空に黄昏が迫っていた。すっかり桜の散った細山調整池のグラウンドでは少年野球の試合が行われている。線路沿いの道路を駅に戻り、めったに入らないドトールコーヒーに入ってコーヒーを頼んだ。
   
 

再会 

風邪引くなよ


この15日は特別な日だった。思い切って隣県に住む異父兄の家族を訪ねたのである。父の葬儀の後、従妹から驚くような話を聞かされた。母は父の前に別の男と結婚して子供を作っていたというのである。そのことを父母はもちろん、祖母も叔母も我々子供には完全に封印し通した。家で恋愛の話がタブーだったのはそれ故であったか、と今にして思う。だが既に母は呆けていたので問い返すこともできなくなっていた。今度母が他界したことで兄に連絡を取る必要が生じた。手掛りは、弟の同級生が偶然にも兄と同じ職場にいたことがあるらしいという話だけ。しかし、その同級生になかなか電話が繋がらない。ハガキを出してようやく彼を通じ兄の家族と連絡が取れた。残念ながら1つ上の兄は数年前に亡くなっていた。65歳だったという。

兄が生まれる前後に母は夫(Kさんとしておく)と別れ、次の年、私の父と再婚した。祖母に育てられた兄は高校を出て集団就職で首都圏へ。公務員だったKさんも後に退職して兄の所に身を寄せたが、やはり65歳で他界している。兄は公務員の仕事を得て勤め上げ、いま奥さんと姪が海の見えるマンションで暮らしている。兄は私とは反対に決して怒らない陽気な性格だったそうだ。写真で見る兄は端正な顔立ちで、中年以降は相応の渋みも伴ってきていた。目は私と似ていなくもないが、きりっとした眉と黒い髪は私のそれとは大違いだ。兄と母は一度手紙をやり取りしたものの、再会を果たさぬまま亡くなったのである。
――アルバムを見ながら話は尽きなかったが、とりあえず生前の母の写真や歌集を渡し、兄が保存していた手紙や写真などを貸してもらった。マンションを出ると外はもうとっぷり暮れていた。Kさんも兄も今は秋田の地に眠っている。結局、なぜ母が3年に及ぶKさんとの結婚生活に終止符を打ったのかは判然としなかった。私なりの仮説はあるがそれは続きということにしておこう。