松平冠山 

松平冠山屋敷跡の表示板
冠山

木曜は久々のフル徹夜で大変だった。2日分の珈琲を飲んでしまったような気がする。しかも火曜日の妊娠生活に続いて、こんどは女性の更年期ケアだのアンチエイジングだの……。このところすっかり頭が女性化している。

我が団地の間を走る道路の脇に松平冠山の屋敷跡という表示板が立っている。松平冠山は本名・池田定常。あの『江戸名所図会』に請われて序文を寄せている1人だが、本職は大名。因幡国鳥取藩の支藩、若桜(わかさ)藩2万石の家督を継ぎ、第5代藩主になる。35歳で隠居したあとも学者や文人と交流し著作や研究に力を注ぐが、文政12年の江戸火災で上屋敷が被災し膨大な書物や資料を失い、下屋敷があった当地に移住。67歳で没するまで質素な暮らしを送った。当時の著名な学者大名、毛利孝標(佐伯藩)・一橋長昭(仁正寺藩)とともに「文学三侯」あるいは「柳の間の三学者」と並び称された。松平を名乗るのは池田家が徳川家康の血を引くためで、外様ながら親藩に準ずる扱いを受けていたという。

重ね地図を見てみると、若桜藩下屋敷4000坪は北寄りの小名木川沿いにある。ここではなく、現在、旧公団の分譲住宅アーバンハイツ北砂が建っているあたりだ。これについてはもう少し調べてみたい。
      

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塩の道橋 

塩の道1 塩の道2 塩の道3

塩の道橋は自宅近く、小名木川の番所橋と丸八橋の間、仙台堀川親水公園の合流点にかかる人と自転車の専用橋で、2008年に完成した新しい橋である。橋の名前はかつて江戸まで塩を運ぶ道であった小名木川にちなむ。川の両側の小学校5・6年生から募集し決定したとか。近くには塩なめ地蔵の宝塔寺もあり、なかなかセンスのいいネーミングだ。橋はコの字型の平面形を持ち、外観は木を思わせる黄色の鋼板が使われている。橋に下には仙台堀川からの排水の一部を流すちょっとした足湯風(?)の施設が造られている。が、この水、ご覧の通り泡だらけで大丈夫なのか考えてしまう。

仙台堀川公園は現在ここまで続いているが、江戸期に開削された本来の仙台堀は現在の平久川合流点までであり、その東側の三十間川をつないで運河として利用されてきた。一方、大正期には砂町の発展に合わせた輸送力の向上を目指して運河の開削が計画され、大正8年、東京運河土地株式会社を設立。昭和8年までに小名木川から横十間川を結ぶ逆L字形の砂町運河が完成した。民間資本で開削された例の少ない運河だという。昭和23年、東京都に移管されて砂町川と名称を改め、同40年に仙台堀川の一部となり、55年埋め立てられ、のち親水公園として生まれ変わった。2800メートルに及ぶ仙台堀川公園の大半はこの砂町運河跡だということになる。江東区の川の歴史を説明しようとすると大変複雑になってしまう。川が出来たり消えたり、あれとこれがくっつき、名前が変わり、人工の川と自然の川が組み合わさって様々な地誌を描いてきたのが江東区なのである。
     
※本文訂正しました。小名木川の丸八橋と番所橋の間が正しい。砂島橋ではありませんでした。

砂糖の縁 

精製糖発祥

4月29日の「風薫る」の画像は注目していただけなかったようだが、カーブミラーではない。タンクローリーのお尻である。中身は「液糖」とある。なぜ液糖かというのが今日のテーマだ。
今日の画像は我が団地内にある「我國精製糖発祥之地」の碑。
砂糖は昔、貴重な薬品として使用されていた。日本での精糖は八代将軍吉宗が琉球から甘薯苗をとりよせて黒砂糖を製造したのが始めである。しかし純白な精製糖は輸入によるほかなく、幕末から明治にかけて試みられた精製糖工業は何度も失敗している。鈴木藤三郎は明治11、12年頃から精製糖の研究を行い、明治16年に氷砂糖の製造に成功、23年頃には純白な砂糖を作ることに成功する。藤三郎は明治の発明王で特許が159件もあり、我が国産業革命の父と言われ食品工業に多大の貢献をした人である。
藤三郎は氷砂糖の精製に成功したあと工場を砂村(現北砂)に移し鈴木製糖所と称した。同28年、日本製糖株式会社を創立。砂村は小名木川の水運で工場の立地に有利だった。29日の画像を横切るのは小名木川である。鈴木製糖所の建てられた場所はかつて吉宗が甘薯苗を栽培した畑だったという。その縁か今でも北砂の小名木川沿いには液糖を運ぶタンクローリーの会社がある。なお、日本精糖は後に大日本製糖となるが疑獄事件を引き起こし、社長がピストル自殺を遂げている。
   

四十町 

四十町

 ――小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす

人口に膾炙した土屋文明の歌である。四十町は昔の八郎右衛門新田。舟入川の両側に家が20軒ずつ40軒あったので四十町となった。現在の東砂6~8丁目に当たる。葛西橋の手前から荒川に平行に南へ延びる道が、四十町通りと呼ばれている。今は写真のように小工場もなく、酸素熔接のひらめきなど見るべくもない静かな通りである。この地に文明の歌碑くらい建ってもいいと思うのだが……。

この歌は『短歌研究』昭和8年新年号に発表された。前年、東京市が隣接5郡82町村を合併して35区になったことを記念して歌人たちの競作を試みた時の作品で、城東区を受け持ったのが分明であった。『ふゆくさ』で叙情歌人として出発した文明だったが、この頃から無機質な叙景あるいは即物的な描写に新たな短歌表現を求める傾向が強まっていく。字余りなど破調を多用した晦渋ともいえる歌が数多く生み出されるのである。城東区というテーマは文明にとって天の配剤とも言えた。ゴツゴツした晦渋な表現は、近代文明が発展する一方で治安維持法が敷かれ共産党が徹底弾圧されるなど、戦争の兆を孕んだ時代へのコミットメントであり違和の表現だったのではないだろうか。この年の1月にはヒトラー内閣が成立、2月、小林多喜二虐殺、3月には三陸地震・津波で死者3000人余。日本は満州撤退勧告案可決を不満として国際連盟を脱退。東京音頭が大流行するなかで、治安維持法の検挙者は最多となる。日本の綿布輸出量はイギリスを抜き世界第1位となるが、低賃金を武器とするソシアル=ダンピングに非難が巻き起こっていた。
  

芽ぶくものみな太陽に 

百合ヶ丘

川崎へ行ってきた。麻生区高石。下の弟が孤独死を遂げた街である。弟は10年前の今日4月13日、遺体で発見された。死後約1ヶ月経っていた。生活保護の担当者が訝しんでカギを開けさせたのだ。火葬には叔母と従妹、彼の友人3人が来てくれた。抜けるような快晴の日で、アパートの2階には満開の桜が重たいほどに枝を差し伸べていた。大家さんにも会ったが、当時80歳を超えてかくしゃくとした上品なご婦人で、弟の死を身内のことのように悼んでくれた。今年行ってみるとアパートは塗り替えられ、去年あった桜の樹は切られてしまっていた。――大雪に烏も雀も死ににけり。弟が机上に残した最後の句である。

静園

ところで、川崎在住の歌人馬場あき子が『図書』2010年7月号に「宗匠俳句の故地」という文を書いているのを読み驚いた。弟のアパートの上にある高石神社が周りの遊歩道に新旧の句を彫り込んだ句碑をいくつも建てていることは知っていたが、この地には近世末期から農民の娯楽を兼ねた文芸として発句の会が定着していたのだ。しかもそれは、宗匠を立て師系を重んずる伝統俳句であった。高石の隣、細山には今も芭蕉の甥に当たる天野桃隣(桃林)を始祖とする句会が継承されているらしい。それは近代以降に興隆した俳句とはまったく別の、農村的な自然を尊び自然とともに生きてきた人々の優雅の精神を代表するものだという。高石神社の句碑群は地域にあるいくつかの宗匠句会の合同建碑であり、30年以上前から毎年春には麻生川の桜並木に俳句の短冊を結ぶ行事が続けられているのだともいう。麻生川というのはどこか確認出来なかったが、弟の死がとんでもない風流の世界に私を誘ってくれたことを不思議に思わざるをえない。写真は51ある句碑の1つ。川崎静園だろうか。