不思議の国のアリの巣 

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緘黙の後に幽けき百日紅

空転に終はる携帯たたみけり

物言へばはらわた寒き秋刀魚の身

カンガルー法廷すべてカンガルー
                                            
                                      

北砂の路地でまた猫たらしに出合った。中年と青年の間くらいの年齢で、いたって普通の身なりをした散歩者風の男である。カメラは持っていないようだったが、私には近づけない黒猫に餌を食べさせ、満足そうに見守っていた。常に餌を携え、それで猫を手なずけているのだろう。不思議なのは猫は餌を持っている人にすぐ近づいてしまい、写真を撮れないことが多いが、彼(前回会ったのと同じ人物だとすれば)はカメラを構える余裕を持っていた。今度会ったら挨拶し、そのへんの秘訣を聞いてみたいものだ。
                    
ところで、よく猫は個人的で犬は社会的だと言われる。私流に言い換えれば猫は詩文的、犬は散文的と言うことになろうか。散文とは内容がすべて意味に還元され、現実の行動や思考の直接的な反映と見なされる言葉である。憲法や法律、政治の言葉、日常の指示や伝達には散文が用いられ、言葉と現実が1対1に対応することを前提として交換される。詩文はその反対と言ってよい。猫と犬の生活パターンの違いからも容易に導き出される結論だろう。

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だが今、堅固に見えた散文の世界が危うくなっているように思えてならない。安保法制の議論を聞いていると、言語と現実の対応関係が大きく狂ってきているのだ。そういう事態の先頭を切っているのは言わずと知れた安倍晋三であるが、ペラペラとはき出される彼(ら)の言葉は現実に対応した散文ではない。かと言って詩文でもない。自分たちだけの仮構の現実に対応した時効言語(バーチャルリアリティ)なのである。現実に対応しない法律など法律とは呼べない。日本はアリスの「不思議の国」になってしまうだろう。一方、最近私が直面した事態では逆に散文での言葉と現実との関係が極端に緊張し、息苦しい世界が現出した。弟からの無理難題もそのたぐいか。冒頭の句はその息苦しさを表現したかったが、これが限界だ。

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さて、道端でよく見かける公明党山口代表のおぞましい顔のポスター。「いまこそ、軽減税率実現へ」と書いてあるのもある。「軽減税率」と言うのは政策なんだろうか。財務省が進める消費税10パーセントの露払いにしかならない、いかにもヌエ政党らしい政策もどきだが、キリスト者の佐藤優が山口代表もろともこれを持ち上げているのには驚いた。私も以前は軽減税率に賛成していたが、輸出企業への給付に消える消費税のばからしさを知って転換した。軽減税率は挫折するだろう。第三の税制を考えるべきだ。
      

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幼児用語字典 

北砂5丁目


  ―――雛祭り手をコマネチのやるせなさ

動きがとれない。明日からは1か月ぶりの仕事が始まり、飛び飛びにしばらく続くが、今日はどうもいけない。土曜日、GT氏と飲むべく高田馬場で待ち合わせしたら30分も待たされ、その間、改札横のディスプレイにメトロの「子どもに返れる」のCMが何度も流れるのを見ていた。私はこのコピーに違和感を覚えたがどっちなのだろう。改めて考えてみる。水野靖夫『ひと目でわかる 微妙な日本語の使い分け字典』(PHP文庫)では、「帰る」は家や故郷に戻るという意味であり、「返る」は単に(元に)戻るという意味だとし、「正気に返る」「生き返る」「初心・童心に返る」「野性に返る」などを、「返」を使う例として挙げている。当然、「子どもに返る」も含まれそうだ。一方、共同通信社の『記者ハンドブック 新聞用字用語集(第10版)』では、「初心に帰る」「童心に帰る」に「帰」を使っている。私はこちらを見てメトロにメールしたのだが、もう少し当たってからにすべきだったかもしれない。
『ひと目でわかる……』の著者水野靖夫氏は私と同年生まれ、東大を出て三和銀行に入り、94年漢字能力検定1級に合格。日本語教育研究所準研究員として漢字検定講座の講師を委嘱され云々とある。だがそれだけではない。『「広辞苑」の罠―歪(ゆが)められた近現代史』、『日本人として最低限知っておきたい[Q&A]近現代史の必須知識』(監修:渡部 昇一)など、その後の著書の内容は、維新の会や「新しい歴史教科書をつくる会」の主張と近似している。そんなお方だったのか。漢字の使い分けには関係なかろうが、「子どもに返る」がまたとんでもなくヤナものを引き出したようで、我ながら憂鬱になった。

日が落ちてからちょっと散歩に出たら、真冬より寒い北風に震え上がった。
   

電車のアナウンスはなぜ濁る 

布団干し

半蔵門線に乗ると、九段下の手前で「次は九段下」というアナウンスが流れるのだが、この「クダンシタ」のシの音がスともツともつかないとんでもない汚い音で、驚いて座ったイスから飛び上がるところであった。その後の英語のアナウンスはまことにきれいだから話し手の問題だろうが、いやしくもプロのアナウンサーがこんな発音をするなんて信じがたい。この車輌は乗り入れする東急のものだったから東急の問題かもしれないが、それはどうでもよい。都営新宿線でも九段下はやはり「クダンスタ」と聞える(かなり濁る場合と少し濁る場合と2種類ある)。またこの人(新宿線のアナウンサー)は森下のシの音も濁る。続く英語のアナウンスはきれいだから、なおさら汚さが際立つ。いずれも住吉や新宿のシはきれいに発音するので、問題は「下」という字を発音するとき、スのように言葉を濁らせる要因が働くということだろう。この人(たち)は下町というときにもスタマチみたいに発音するのだろうか。それとも何々下というときは濁るというコンセンサスが生まれつつあるのだろうか? 

似た話をだいぶ前、東京新聞のサンデー発言という欄に「日本語のシが濁るとき」と題して投稿したことがある。その際は主にテレビで「この番組は何々の提供でお送りしました」と言うときの、シマシタがひどく濁る現象を取りあげた。拙文が効いたわけではないだろうが、その後シマシタがスマスタに聞えることはなくなった。なお、東京メトロの車内アナウンスはアナウンス学校の学生がやっているということだ。
      

イカレタ男 

大島

年若い人間の会話には「イカレタ」が多い。しきりに「イカレタンデスカ?」「イカレタラ」などと言う。これは我々の日本語では「いらっしゃったんですか?」「いらっしゃったら」と翻訳できる。イカレタも間違いではなかろうが語感の悪いのが致命的だ。もちろん私は絶対使わない。何でもレルを付ければ敬語になるだろうという発想が気に入らん。「敬」がないのに言葉だけ敬語形式にしておこうという考え方が見え見えである。テレビでは「おしゃべりになる」という変な言葉も聞いた。「しゃべる」は「話す」のくだけた言い方である。これが敬語になるわけはないだろうに。「見た」の敬語は「ご覧になる」だが、若者はこれが言えず「見られた」を連発する。何にでもレルラレルをつけて敬語化した気になるのは、ら抜き言葉蔓延の反作用ではないだろうか。そんなことを考えてしまう。

「いいです」「ないです」もヘンな言葉だが、話し言葉やネット上の文章では普通のように使われている。いまは辞書にも載っており、現状追認式だが既に市民権を得ているわけだ。さすがに新聞やその他まともな文章ではこの言い方はなされていない。したがって許容されているが抵抗もあるということであろう。たしかに話し言葉が「ない」「いい」で終わってはぶっきらぼうの印象を免れない。

書き言葉でおかしな表現に「……すべき」というのがある。新聞見出しや区議会の議事録に多いが、正しくは終止形の「……すべし」であろう。「すべき」なら「だ」や「である」が後ろに付かないとおかしい。したがって「すべき」はそれらの語が省略された表現だとの屁理屈も聞いた。ならば「すべし」で何がいけないのか。滝廉太郎が曲を付けた武島又次郎の「花」は「眺めを何にたとふべき」だが、語尾の省略によって余韻を生み出す詩歌ならではの技法である。「すべし」では古色蒼然としすぎとの指摘もあった。それなのに「すべき」がいいとはどういうわけだろうか。
  

「天罰」 

本郷

石原慎太郎は地震は天罰だと発言し慌てて撤回した。一旦吐いたが最後、言葉を取り消すことが出来ないことぐらい承知のはずではなかったのか。12chでメルトダウンをメトロダウンと言い間違えている「専門家」がいた。菅総理の「国難」云々という演説も意味のない身振りとともに陳腐であり不快であった。絶望の中に希望を喚起させる言葉は望べくもない。政治家が国難を持ち出すときは眉につばを付けるべきときだ。枝野官房長官の何にでも「を」を付けて言う会見にもいらだつばかりだ。この冗漫さは今の危機にまるでふさわしくない。東京電力副社長の会見。口の中でゴニョゴニョとこね回すような不明瞭な言い方は、言葉としても聞き取れないばかりか語る姿勢として隠蔽体質の延長にあるように思われた。事態は不透明でも明解な言葉が必要な局面だが、完全に逆効果だった。反対に死の爪を辛くも逃れた人々の体験談は、どれも短いコメントでありながら生々しく聞く者に直接届く力を持っていた。