善福寺川を歩く 

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28日の日曜日は久々の川歩き。何やかんやでタイミングが合わず、ほぼ1年ぶりの再開だ。今回は善福寺川の下流を歩く。善福寺川は何年も前に荻窪から源流の善福寺池まで歩いた。3時に丸ノ内線の南阿佐ヶ谷で待ち合わせ。参加者は6人。メタボさんと山姥さんにも声を掛けたが、2人とも予定が入っているとのことであった。さて、みんなに渡す地図はいつものA4ではコースが上手く入りきらず、A3の特大判になった。これは正解、我ながら実にわかりやすい。

南阿佐ヶ谷から南側へ建て替えで廃墟のような団地の中を縫って、川へ出る。小幅の川は流れが緩いが水はきれいだ。この水は、都の清流復活事業により千川上水へ通されている下水高度処理水を回収し、善福寺池の手前で放水しているものだという。川の内側に石貼り風の河川敷が造られ、水草が除去されているのでスッキリして見える。ここは既に善福寺川緑地公園の一部だ。快晴の休日でもあり、川沿いの緑の木陰をジョギング、サイクリング、ウォーキングの人がひっきりなしに通っていく。五日市街道を渡り、子供の広場を過ぎると和田堀公園になる。芝生の上で大勢の人が寛いでおり、ミュージックグループの演奏に拍手が上がる。和田堀池は昭和30年代に公園と一緒に造られた人工の池だそうだが、ゴイサギのコロニーができていたりで、なかなかの景観だ。くちばしの紅い水鳥はクイナかバンか。

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しばらく行くと公園は終わり普通の都市河川になる。同時に河川敷がなくなって垂直の護岸になり、一部に親水公園風の施設も造られつつある。環七の少し上流には環七地下調節池の善福寺川取水施設が口を開けている。環七の地下に造られた巨大な調整池に豪雨などの時に水を流し込み洪水を防ぐ施設で、神田川と妙正寺川に同様の施設がある。今回は環七を越えて光明橋のところまで行く予定だったが、横断が難しいことを理由に環七(方南町)で終りにする。道のりは5.5㎞くらいか。方南町は都市銀行が2つもあり賑やかなのに皆ビックリ。しかし、飲み屋のチェーン店は意外と少ない。

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久しぶりの川歩きで酒を飲み、はしゃいだせいか疲れ切ってしまい、次の日は寝坊してしまった。仕事はないが夕方になっても疲れが抜けない。やっぱり歳かな……?
    

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知水資料館 

北区志茂
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週の前半は仕事だったので、金曜日は早めに出てギャラリー回りを集中的にこなした。トーテムポール(有元伸也展)、ニエプス(ヨハン・オーカタ展)、シュハリ(直江沙季展)、蒼穹舎(真月洋子展)、サードディストリクト(那須悠介展)、TIG(村越としや展)、富士フイルム(小林紀晴展)、ル・デコ(グループ展)を回る。小林紀晴の「遠くから来た舟」は林忠彦賞受賞作だが、イマイチ乗れない。展示の仕方に問題があるのかもしれない。土曜日は岩淵水門の近くにある荒川知水資料館で「小泉定弘オリジナルプリント写真展」を観る。作者は日大の先生で1993年に荒川の全流域を踏破し『荒川』を出版している。展示は本の写真からの抜粋だという。これは21日まで。係員に上流のキャプションのことで質問したが、ここは荒川下流河川事務所が運営している、上流・中流は管轄外でわからないと言われた。あまりの縄張り意識に唖然とする。

ル・デコは渋谷川沿いのビルにあるが、渋谷の大改造に伴って東横線が地下に潜り、川沿いの高架は廃線となってしまった。若いころ急カーブに揺られながら通勤した東横線の黒々とした廃墟を見るのは寂しいものだ。川に谺した車輪の響きも、狭い川面を照らした車窓の灯りももうない。金曜日の地下鉄ではへんなアナウンスに出くわした。「……建物が壊れましても衣服が汚れましても関知いたしません。自己責任ですっ!」というのだ。前の方はよく聞いていなかったが、よくある駆け込み乗車は止めて下さいというものだったように思う。それがなぜ建物が壊れることになるのか。若い声だから新人かもしれない。もう一度聞いて確かめたかったが、すぐ降りたので叶わなかった。どの線だったのかもよく覚えていない。都会では時々不思議なことが起き、すぐに忘れられる。

追記:知水資料館で聞いたのは「明戸サイフォン」のこと。埼玉県深谷市と熊谷市の境にあり荒川の下を潜って農業用水を通す仕掛けだが、現在は撤去改修されている。写真展のキャプションにある言葉なのに、気にならないものだろうか。知水の名が泣く。

我が「追憶の風景」 

川崎市麻生区


以前「関係の写真家とは」で取り上げた「いっちゃん」こと鈴木一郎氏が亡くなっていた。享年69。昨年1月のことで、今年の一周忌には親族・友人など14人が参列し、従兄が「一郎は少年の頃、学校に通うことも容易ではない不幸な時代を送った。好きなように生きたのだから、彼の人生は大いなる幸福の中にあったと思う」と挨拶したという(『置文21』17号)。
いっちゃんは造園会社を定年で辞めたあと、軽トラで焼き芋屋をしているのが目撃されていたが、他に配送などもやり無理を重ねたらしい。喜怒哀楽が激しく、付き合えばなんとなくうざったい「過剰」な人であった。ある時、吉井と名乗る知らない男から電話があり、難癖を付けるような詰るようなことを一方的に延々と言い続けるので閉口したが、それは彼が声色を使って掛けているのだと、彼を紹介してくれたM君から聞いてビックリしたことがある。三宅島の生闘学舎というコミューン運動から離脱した彼が、晩年は社労同の流れを引く『置文21』の同人になっていたのも意外だった。彼と撮り飲み歩いたつかの間の日々はもはや陽炎のように遠い。「関係の写真家」の名はどうやら私が引き継いでいかざるを得ないようだ。

なお、「追憶の風景」とは同年代の福島泰樹が東京新聞に毎週土曜日書いているコラムで、今は亡き友人や先輩後輩との交誼を熱く綴っている。私のブログも亡くなった人の回想が多くなるのは必然か。