晩夏(おそなつ)の影 

清水目川々口
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メールの着信が点滅したので、何の気なしに開けてビックリ。大学の恩師M先生からであった。先生からメールをもらうのも初めてだったが、その内容は意外で胸打たれるものだった。曰く、去年の夏は腸閉塞を起こして1か月入院。今年は大丈夫だろうと思っていたら急性肝炎になり、入院していろいろ調べたら総胆管に結石があり、それが原因なので開腹手術が必要ということになった。もう85歳なので回復には長い時間が必要だろう。君の暑中見舞いに返事が出せなかったのはそういうわけだ、と詫びているのだが、かつての落ちこぼれ学生が出した暑中見舞いをそんなに真剣に考えて下さるなんて……。読み返すうち、生涯疾走し続けた恩師の弱音とも言える述懐に思わず涙が湧き、慌てて適当な返信を送ってしまい後悔した。

かと思うと、私の10歳下で写真家として好調に飛ばしていたはずのS氏が昨年末に脳出血で倒れ、現在も闘病中とギャラリーで偶然聞いた。彼は80年代の頃『月刊カメラマン』に書いており、それはよく読ませてもらった。月カメ編集部でレイアウトをしていた知人を介し3人で飲んだのはいいが、その店でボラれてビール1本3000円も取られた苦い思い出がある。だが、その後の彼の活動は情報が入らずよく知らない。去年だったかリコー・リングキューブで彼の写真展が開かれた時会ったが、25年以上のご無沙汰ではなかったか。Webでは多彩な活動を続けている様子が伝わってきた。奥さんからのメールでは脳が大分損傷を受け、未だに意思疎通が出来ない状態だという。1日も早い復帰を祈るばかりだ。

写真展の“版下”がやっと出来た。あとは出力するのみ。もっとも出力した作品が気にくわなければまた作り直し……。
     

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グランド 

日が暮れる頃


現在の表記ならグラウンドだろうが、我々はみなグランドと呼んでいた。
北側の海岸段丘の縁に水神宮があり、水神宮の石段を下りてまっすぐ行くと海の手前に我が家があった。東に弘大附中、西に果樹園、南を大湊線が横切っていてC11の牽く短い貨客混合列車がのんびりと走っていた。グラウンドは高校でも使ったが中学でも少年野球でも使い、遊び場であると同時に町への通路でもあった。雪の積もる冬は馬の背のように真ん中が盛り上がった歩きにくい道となり、春の雪解けには水がたまって一面の湖になった。
弘大附中はとっくに廃校になり、賢治にあやかって未来館と呼ばれた図書館は工場の倉庫として長い間使われていたが、工場もろとも消えてしまった(と書いたが、工場そのものは残っているようだ)。少年野球といえば、野球の嫌いな私は練習に動員されてもいつも球拾いで、ずーっと奥の方に1人で陣取っていた。練習は朝早い。めったに来ないボールを待っていると、露に濡れた雑草からおびただしいトンボの群れがわき上がり、羽根を光らせながらどこかへ飛び去っていくのだった。
今、グラウンドから町の方へ行く踏切がなくなり、代わりにできた歩道橋も閉鎖され、アクセスはずいぶん悪くなったように思う。小学校の頃、この踏切で遊んでいて線路の上に上履きを置き忘れ、汽車が通ったので慌てて戻ったら真っ二つになっていた。
   

修学旅行 

奥羽本線


ちょっと前の話になるが、鳴海氏が夫婦で伊勢・京都を旅行し、ついでに高校時代に修学旅行で泊まった京都の旅館を訪ねたそうだ。私はすっかり忘れていたが、宿賃代わりに米を持参したのだという。娘のような歳の若女将には、そういう話は聞いた覚えがあるが記録は残っていないと言われたとか。
思えば昭和35、6年、我々の修学旅行は青森から東京、大阪、京都・奈良、さらに四国に渡り、栗林公園、小豆島に至る強行軍だった。鈍行列車の車中泊も多く、旅行の嫌いな私は身体が痛くてたまらなかった。おまけに京都の旅館では、同級生にわけのわからないプチイジメを受け頭に来た。舟木一夫の歌う「修学旅行」のような心弾む想い出はほとんどない。ただ鉄道が好きだったのでいろんな列車に乗れたのは収穫には違いない。青森が黒い蒸気機関車だった当時、裏日本を行く列車がディーゼル機関車に牽かれていたのには感激した。小豆島では「オリーブの歌」というご当地ソングを覚えた。二葉あき子が歌う名曲でYouTubeにもアップされている。小豆島だったか、船を待っている間に休憩した船宿の二階のうら寂しい景色が妙に記憶に残っている。