暗澹として暮れる 

野辺地


30日は誕生日とはいえメールも来ない例年通り寂しい1日だった。やらなければならないことはあるのに、何だか気が乗らない。ブルーベリーのサプリを買いにダイエーへ行く。寒くて閉口する。弟の電話では今年の野辺地は雪も少なく暖かいとか。前の日は錦糸町のヨドバシカメラへ出掛け、HPプリンターの黒インクを買ってきた。10年前のノズル一体型なので3700円もする。いい加減本体を買い直した方がいいようだ。PX-G5300があるのにDeskjet955cを使い続けているのは、色味が普通紙に合いメリハリが利いてかつ頑丈だからだが……。

先月の東京新聞「ミラー」にこんな投書が載っていた。投稿者は72歳で名前からすると男性であろう。仕事の都合で米国籍を取り、その後また日本国籍を取り直したという人だ。彼が経験した国籍取得の手続きにおける日米の差から、国家が何に重きを置いているかが分り、その違いが国民の憲法意識に反映されていると感じる……これが投書の骨子だが、両者の落差には愕然とせざるを得ない。米国籍を取るにはまず米国憲法・歴史・三権分立など国家の仕組み、それと生活に支障のない程度の英語能力の2つの試験に合格する必要がある。対して日本国籍を取るのに必要なのは「財政的な裏付け書類、納税記録、これまで住んだところの記録、近所で親族以外の知人二人の連絡先と日本国籍を取得したい理由書」で、憲法のケの字も、議会のギの字も問われることはなかったという。
さて現在の日本――国会には改憲を党旨とする大与党が居座り、首相や党幹事長、閣僚が公然と憲法を無視した発言を繰り返し憲法を侮辱する。彼らの改憲案は肝心の立憲主義を捨て去り、国家が国民を支配する前近代的国家観に逆戻りしていく。彼らばかりか、満身創痍の日本国憲法に噛みつくふりをしておこぼれに与ろうという輩にも事欠かないのが現実なのだ。2014年――暗雲垂れ込めた空にどんな太陽が昇ろうとするのか。
          

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消えた手紙 

梱包アート(大島・都営住宅)


2、3日前、八戸にいる母の従妹Kさんから手紙の返事が届いた。Kさんはただ1人手紙のやり取りができる親戚で、いつも母のことや我が家のことを気に掛けていてくれる。手紙を開けると「もらった手紙は真っ白で読めませんでした。85年生きてきてこんなことは初めてです」とあり、私が出した手紙が同封してあった。1枚目は完全に真っ白、2枚目は上半分の文字がまだらに見える。ピンときた。私は誤字が多いのでいつも「こすると消える」パイロットのフリクションボールを使っている。仕事でも赤字(入朱)にはこれを使う。水性ボールペンの1種だが、おしりのラバーでこすると書いた字を消すことができる。インクが60度以上で透明になる性質を利用しているという。当然、重要な書類には使えないが、Kさんへの手紙も最近はいつもこれで書いていたのである。Kさんはそんなことは知らないのでストーブのそばに置いたらしい。

さて困った。私も何を書いたか忘れてしまった(覚えている部分もあるが)。メーカーのFAQを見て手紙を冷凍庫に入れておいた。すると3時間後、うっすらと読めるようになった。あぶり出しならぬ冷やし出しだ。それで改めて普通のボールペンで手紙を書き直した。危ないことである。大事な情報をこれで書いてその後忘れてしまったら……取り返しがつかない。仕事に使って相手がコーヒーでもこぼしたらアウトである。仕事で私が入れる赤字など大したものはなく、むしろ消えてしまった方が有益というものだが、何気なくフリクションボールで書いた書類は他にもある。消えたら冷凍庫に入れて下さい。

今日はかつての畏友・鈴木一郎氏(通称いっちゃん)の墓参りに行ってきた。といってもお寺は王子と聞いていたのに駒込にあるし、ろうそく立てがなく持参した線香10本ではかっこうが付かない。花も供えなかった。寒いし今回は墓参だけで勘弁してもらおう。
      

再会 

風邪引くなよ


この15日は特別な日だった。思い切って隣県に住む異父兄の家族を訪ねたのである。父の葬儀の後、従妹から驚くような話を聞かされた。母は父の前に別の男と結婚して子供を作っていたというのである。そのことを父母はもちろん、祖母も叔母も我々子供には完全に封印し通した。家で恋愛の話がタブーだったのはそれ故であったか、と今にして思う。だが既に母は呆けていたので問い返すこともできなくなっていた。今度母が他界したことで兄に連絡を取る必要が生じた。手掛りは、弟の同級生が偶然にも兄と同じ職場にいたことがあるらしいという話だけ。しかし、その同級生になかなか電話が繋がらない。ハガキを出してようやく彼を通じ兄の家族と連絡が取れた。残念ながら1つ上の兄は数年前に亡くなっていた。65歳だったという。

兄が生まれる前後に母は夫(Kさんとしておく)と別れ、次の年、私の父と再婚した。祖母に育てられた兄は高校を出て集団就職で首都圏へ。公務員だったKさんも後に退職して兄の所に身を寄せたが、やはり65歳で他界している。兄は公務員の仕事を得て勤め上げ、いま奥さんと姪が海の見えるマンションで暮らしている。兄は私とは反対に決して怒らない陽気な性格だったそうだ。写真で見る兄は端正な顔立ちで、中年以降は相応の渋みも伴ってきていた。目は私と似ていなくもないが、きりっとした眉と黒い髪は私のそれとは大違いだ。兄と母は一度手紙をやり取りしたものの、再会を果たさぬまま亡くなったのである。
――アルバムを見ながら話は尽きなかったが、とりあえず生前の母の写真や歌集を渡し、兄が保存していた手紙や写真などを貸してもらった。マンションを出ると外はもうとっぷり暮れていた。Kさんも兄も今は秋田の地に眠っている。結局、なぜ母が3年に及ぶKさんとの結婚生活に終止符を打ったのかは判然としなかった。私なりの仮説はあるがそれは続きということにしておこう。