自爆の歌 

用賀・世田谷美術館
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  ――人はみな孤なりと思ふ真昼間のかげあざやかにめぐる日時計

いきなり拙作を持ち出して恐縮だが、これは93年に東京歌壇(岡野弘彦選)に投稿して2人目に掲載されたのはいいが、岡野先生によって「孤」を「孤独」と変えられ、以後、岡野選を避けて佐佐木幸綱選に投稿することになった因縁の歌である。日時計は物の影が動いていく様を表したもので、現実の日時計を詠んだわけではなかった。岡野先生は1・2句が平板になったと選評に書いており、それは確かにその通りだ。しかし私にとって「孤」と「孤独」は同じではない。孤独は独りぼっちというようなニュアンスの境遇を表しているのに対し、孤は情緒に左右されない存在そのものの本質である。人間は本質的に独り(単独)なんじゃないかということだ。この時、念頭にあったのは86年泉鏡花賞を受けた増田みず子の『シングル・セル』である。シングル・セルは孤細胞。単細胞とも訳す。孤に始まって孤に終る男と女の、出会いと別れを描いていたような気がするが、私が念頭に置いたのは内容ではなくそのタイトルだった。実を言えばこの歌は、ある人を勝手に思慕し自爆に終ったあとの作物だから、孤と言い孤独と言っても一種のかっこつけであることは容易に想像できよう。1・2句目はその時の偽らざる実感であった。なお、増田みず子は東京農工大で植物防疫を学んでいる。

水曜日、時間があったので世田谷美術館で「桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチ60年」を観る。彼の仕事の全体像を見渡す写真展はこれが初めてだという。戦前からのモノクロとカラーのプリント約200点、コンタクトプリントなど資料約30点のほか、パリを撮ったスライド映写もあり、まことに充実した回顧展だった。桑原甲子雄はアマチュア写真家として世に出、終生そのスタンスを変えなかった。撮影地に上野・浅草が多いのは、実家の質屋の仕事から逃れるため近くに撮影場所を求めていたからだという。戦後は写真評論家や雑誌編集者として東京のスナップを撮り続けるが、終盤の『東京暦日』あたりから、ちょっと気が抜けるきらいなしとしない。会場で「作者の関わりの周期において終りを迎えつつあった」というような表現があったように記憶するが、このことだろうか。

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野菊の墓文学碑を訪ねて 

4月20日の川歩きはイマイチだった。でも、1年ぶりの川歩きとあって、同窓会的な意味では満たされたかも知れない。参加者は私を入れて7人。山姥さんは仕事だということだ。今回は北総線・矢切駅から矢喰村庚申塚と野菊の墓文学碑(西蓮寺)を見て矢切橋を渡り、坂川を南下して柳原水閘を見学。そこから里見公園に上って休憩し、江戸川沿いに歩いて真間川に入り、手児奈橋から市川駅方面へ向って行けば、市川市内でいい飲み屋が見つかるだろうという考えだった。しかし、集合で1人が10分遅れたのを皮切りに万事もたつき気味で、里見公園で休憩するうちに空はかなりの薄暗さとなった。弱音を吐くメンバーも出始めたので、止むなく後半部分を割愛して国府台駅で電車に乗ってしまった。そこから青砥に出てそこの養老乃瀧で打ち上げとなった。

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矢喰村庚申塚は松戸市内で青面金剛を主尊とした最古の庚申塔で、市の文化財に指定されている。隣には矢切神社がある。庚申塚には里見・北条両氏の合戦で呻吟する住民の安らぎへの願いがあったようだ。たくさんの石仏が並んでいるが、残念ながらよく把握していない。野菊の墓文学碑は西蓮寺境内にあり、明治時代の矢切を舞台にした伊藤左千夫の名作『野菊の墓』の一節が刻まれている。門人・土屋文明の筆になるものだが、では建てたのは誰なんだろう?(左千夫の墓は亀戸の普門院にあり、たまに墓参りする)。 

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柳原水閘(すいこう)は1904(明治37)年に完成した煉瓦造りの樋門で、松戸市の文化財、土木学会選奨土木遺産などに指定されている。松戸市内を流れ下る坂川の水を制御するためのもので、現在は新しい水門に役目を引き継いでいる。里見公園は15世紀に太田道灌が仮陣を置き、弟の太田資忠らが国府台城を築いた。北原白秋の旧居紫烟草舎、羅漢の井などが残っているが、暗くなったのですべて素通りした。若い男女数人のグループが寒い中にシートを敷き、がやがやと花見(?)をしていた。真間川はずっと前に歩いたことがあった。川口付近に水神宮が建っている。

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なお、今回のコースは北総鉄道のPR誌『ほくそう』の「北総線の小さな旅」を参考にした。北総線は料金が高くてどうにもならない。
        

弟の暮らした街 

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13日の日曜日、弟の命日みたいなものだから、毎年訪ねている彼の街を今年も訪ねた。彼が亡くなって今年で13年が過ぎた。昨年、父の七回忌とともに13回忌を行おうとしたが、母の具合が思わしくなく中止したのである。案の定、母はその翌月に旅立ってしまった。
さて今年、例によってよみうりランド前で降りて長い坂道を上り、高石神社の下にある彼のアパートを見にいく。途中の三叉路で毎年のようにお地蔵様に手を合わせる。どういう由来なのか、子育て地蔵の子の顔が欠けているのが気になる。閑静な住宅街の中を上り坂が続く。アパートでは弟がいた部屋にも人が入っているようで、洗濯物が干してあった。きれいなクリーム色に塗り替えられ、昔と同じくプロパンガスの40キロボンベが4本並んでいる。階段のところの八重桜は枝がだいぶ切られていたが、それでも当時と同じ桜が咲いていた。弟が発見された日の次の日曜日、読経もなく荼毘に付したが、抜けるような快晴の青空にこの桜が2階廊下を覆うように枝を伸し、満開の花が哀しかった。

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その日、奇妙なことが起きた。80過ぎの大家さんがアパートへ一緒に行きたいといって車に乗ろうとした時、彼女の指がドアのどこかに挟まったのである。あり得ない事故だった。悲鳴を上げたがなかなか外れない。ほんの2、3秒の出来事だったが、弟が彼女を引き留めているようにもすがりついているようにも思えた。弟は彼女を母か祖母のように慕っていたのである。弟の死を共に悲しんでくれた大家さんは、父が亡くなった年に亡くなっていた。してみると、年代は父に近かったのだろう。今回、思い切って家を訪れて事情を聞き、焼香することができた。あの時は大家さんにも息子さん夫婦にも大変世話になってしまった。これでようやくなすべきことの一部が果たせたように思う。

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大家さん宅を出て小川を渡ると雲の厚い空に黄昏が迫っていた。すっかり桜の散った細山調整池のグラウンドでは少年野球の試合が行われている。線路沿いの道路を駅に戻り、めったに入らないドトールコーヒーに入ってコーヒーを頼んだ。