「春よ来い」 

北砂五丁目/夕焼けだんだん(何見てんの?)
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昨日今日と91歳の写真家・上村國夫さんの写真を観に、板橋区大山と千駄木の2か所を回った。大山のUp40GalleryImagineでは「春よ来い」、千駄木のぎゃらりーKnulpでは「あの昭和をもう一度」を展示している。いずれも2月4日までだが、大山の方は日曜日が休みである。上村さんは年末から入院手術し、前倒しで退院させてもらって準備に掛かったそうだ。「春よ来い」はレジャーやイベントに興ずる人々の笑顔をカラーで、「あの昭和をもう一度」は自分や家族のポートレイトを挿みながら、戦後の風景風俗をモノクロで見せる。昨年2月に表参道と池袋で開いた個展に続く回顧展の一環と思って間違いない。いずれも上村さんらしい親しみやすいアプローチで多様な情景を捉えている。「春よ来い」の春は季節の春ではなく人生の春であり、91歳を迎えた写真家の大らかな人間賛歌である。年齢を感じさせない上村さんだが、体調にはこれまで以上に気を付けていただきたいものだ。
千駄木の会場へは日暮里駅から夕焼けだんだんと谷中ぎんざを通る。光線もよし、こりゃいけるぞとカメラのスイッチを入れ、2枚撮ったところでカメラがダウンしてしまった。どうやら前夜パソコンに繋いだまではいいが、画像取り込みモードにしっぱなしで充電されてなかったようだ。ギャフンである。

谷中ぎんざ
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さて、イスラム国に拘束された後藤さんを讃える映像や動画は多数流されるものの、すでに殺害されたとされる湯川さんの方は情報がちっとも流れない。それもそのはず、湯川さんは民間軍事会社CEOで、経験を得るためとか称して危険地帯に出掛けた動機も怪しいが、銃を持っていながら弾は入っておらず、自分自身も性転換に失敗した玉なしなのだとか。遥菜という名前はその時の名残のようだ。それでも邦人保護の名目が立てば自衛隊が派遣されかねない時代になった。一方、共産党の衆院議員が安倍の「言語道断」発言を捉えて「安倍政権の存続こそ言語道断」とツイートし、志位委員長が「政府が全力を挙げて取り組んでいる最中にああいう発信をするのは不適切だ」と叱責、ツイートは削除されたという。これで共産党が単なる人気取り政党であることがはっきりした。「政府が全力を挙げて取り組」むことがどれほど危険か、もう忘れたのだろうか。
     

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「遡上の光景」をもう一度 

外苑前/渋谷
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風の冷たい日が続く。白クマ氏と違い寒さに弱い私には地獄である。
今日は氷雨の中、よせばいいのに品川まで出掛けてしまった。

土曜日はゴールデン街のnaguneで行なわれた中居裕恭展のトークショウに出掛ける。トーク情報はnaguneのサイトにも載っていないのに、口コミだけで結構な人数が集まるのは立派なものだ。中居展は昨年末のPart1で『北斗の街―遡上の光景』所収の作品を、今年のPart2ではそれ以外の作品を展示している。いずれも八戸周辺のモノクロ風景。トークはゲストにスチールカメラマンの体験をまとめた『映画の人びと』を出した渋谷典子を迎え、新宿2丁目にあった伝説のイメージ・ショップCAMPとその周辺のエピソードを、貴重な写真やパンフレットを見せながら語る。
70年代中盤はマスコミとカメラメーカーが仕切っていた写真界に対し、新しい表現を模索する流れが自主運営ギャラリーなどに結実していった時代である。森山大道が提唱して始まったCAMPは、真ん中にジュークボックスを据えたスタイルからわかるように、ギャラリーの枠には収まらない多様なアイディアを次々に繰り広げる楽しい(めちゃくちゃな?)場だったようだ。CAMPとはゲイのスラングでもあり、場所が場所だから何かと噂のタネにされたらしい。

渋谷・中居・高橋義隆(司会)
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帰省ついでに中居が本八戸駅前で営んでいたギャラリー北点を訪ね写真を観たことがある。オープニングには青森の写真集団イマージュのメンバーも来ていた。彼の写真はワークショップ写真学校とCAMPで得たものを駆使し、故郷南部地方をまとまった作品にした点で意義深い。北点は現在休業中で、中居はプレイスMのメンバーでもあるがここ10年以上新作を発表していない。息切れするには早すぎる。歳相応の故郷像をまた見せてもらいたいものだ。
なお当時の写真に写っているCAMPの紅一点、渋谷が可愛いのにはビックリした。可愛く写っているのだけを持ってきたのだろうか?(いやいや今でも彼女は魅力的です) 7時過ぎから9時頃までずっとnaguneの2階にいたら、風通しがよすぎて身体が冷え切ってしまった。中居裕恭展(Part2)は今月末日まで。
     

歌のわかれ 

品川/恵比寿
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年賀状は実家の分や親戚を含め80枚ほど出したが、鳴海氏などはその倍以上出しているという。仕事での付き合いが多かった人はそうなるんだろうか。何年か返事の来なかった人からもらうとホッとするし、ずっと返事のない人は削除することもあるが、親戚には返事の有無に拘わらず出すことが多い。今年はずっと返事のなかった事務所の大先輩Hさんから返事が来てホッとした。Hさんはだいぶ前に仕事を辞めていたし、お歳でもあるので心配していたのだ。小学校の同級生S君と中学の同級生O君は3年ほどメールにも音沙汰がなかったが、今年返事が来た。気まぐれならばいいのだが、お互い歳なので心配する。静岡にいるK君からは、毎年「今年こそ同期会に参加します」という賀状が来るのに、本人は一向に姿を現さない。

ただ、八戸から東京に引っ越した歌誌「国原」の主催者・Iさんから音がないので心配していたところ、先日、母の従妹から地方紙のスクラップが送られてきて万事呑み込めた。Iさんは年末の12月24日に亡くなっていたのだ。それだけではない。もう1つの記事(昨年6月)には「国原」は高齢化などで会員が減り、100年に及ぶ八戸での活動に幕を下ろすことになったとある。「国原」は今後、Iさんの長女が住む滋賀県大津に拠点を移し継続するという。八戸では有志が「希望の会」を設立し、地域文化に尽くしてきた人々の意志を継いでいくとのことだ。
「国原」は窪田空穂の流れを汲み、前身はIさんの義父が八戸で創刊した「歌聖」「美籠」である。「美籠」は戦争の激化で「地上」と合併させられ、戦後の昭和22年、新たに「美籠」を継いで「陸奥」を創刊、それを改題したのが「国原」だったようだ。私の母と母の従兄は昭和12年「美籠」発足時からの同人だったが、母は後年「樹林」に移り、叔母は「国原」東京支部を「川」として独立させたグループの1人であった。「国原」が県南(旧南部)地区の短歌人育成に果たしてきた役割は多大であったが、Iさんを失っては如何ともしがたい。Iさんの冥福を祈るとともに、100年に亘る価値ある資料が保存され正しく継承されていくことを願う。

恵比寿の神蔵美子展でアラーキーを見かけた。元気そうだった。