ある闘いの軌跡 

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新幹線が開通する前、当然ながら野辺地までは在来線で帰っていたが、盛岡を過ぎて小1時間ほど北上した辺りで、特急列車の窓に草むしたホームと「こつなぎ」と読める駅名票が過ぎ去るのが見て取れた。ここが小繋事件として村を二分し数十年に及ぶ入会権闘争の舞台であった。私は戒能通孝『小繋事件―三代にわたる入会権紛争』(岩波新書、1964年)や篠崎五六『小繋事件の農民たち』(勁草書房、1966年)を図書館で借りて繰り返し読んだが、2次にわたる裁判を含む事件の様相はいざ纏めるとなるとなかなか複雑である。

岩手県二戸郡小鳥谷村(現一戸町)小繋・下平40戸の暮らしはつましいものであった。幕藩時代には耕地23町8反のうち水田が1町歩余というから、ほとんどが里山の恵みに依存していたとみて間違いない。村人は薪炭、堆肥用の草柴、家畜の飼料、家屋補修材、山菜・果実・山桑などの全てを、2千町歩の入会山から得ていた。こうした村人の死活の権利を保障するものが入会権であった。地租改正に当たり、小繋では明治10年に旧名主であり部落寺の住職であった立花喜藤太の個人名義で地券を受けた。村人からすればそれは便宜的な手続きで、後々大変なことになろうとは知るよしもなかった。ところが喜藤太の持つ利権は、事業の失敗から銀行の担保になったりしたあげく、金貸し金子太右衛門を経て明治34年に茨城県の海産物商・鹿志村亀吉に渡ってしまう。鹿志村は小繋山のうち「ほど久保山」約800町歩を陸軍省中山軍馬補充部に売却し、代金の内1万円を植林の約束で預かった。村人は自分の山に木を植えるつもりで無償で働きに出ていたのである。
その後8年間、鹿志村と村人の間はうまくいっていた。鹿志村は喜藤太に代ってダンナになることもできた。
大正4年、部落を総なめにする大火が発生し、村人は全財産を失い1万円の預かり証文も焼失した。村人は生活再建の資材を山に頼らざるを得なくなった。しかし、部落に入り込んでいた鹿志村は、「これは部落の山ではない。一木一草といえども勝手に刈ってはならん」と宣言し、警察を入れ台帳を振りかざして村人を排除しようとした。
暖を取る薪も得られず窮地に陥った村人は、談合を繰り返した結果、裁判に訴えるしかないとの意思をひとつにし、密かに頼ったのが平糠(現一戸町)の小堀喜代七であった。西郷さんを彷彿とさせる風貌……そんな述懐もある喜代七は当時48歳。郡議員小堀甚吉の後見人という地方名士として不自由のない暮らしをしていた彼は、法律家ではないにしても数々の争いに関係し、法律の争いに習熟していたのである。村人の訴えを聞くやいなや、喜代七は妻子の猛反対を押し切ってすぐさま小繋に入り闘争のための準備に掛かった。以後30年間、彼は村人の闘いの中心にあり続けるのだが、一銭の謝礼も受けないばかりか裁判に相当量の私財を注ぎ込んで顧みることがなかった。小堀喜代七とはそも何者であったか。(以下次号)

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「九条守れ」の女性デモ 

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東京新聞(中日新聞)では読者から「平和の俳句」を募集しており、毎日第1面に秀句1句のみが掲載される。無季でもいいがペンネームは不可で本名のみ。選者は金子兜太先生といとうせいこう氏である。さすがに狭き門を通った毎日の秀句は素晴らしいものばかり。私も応募したところ選に漏れたが、ありがたいことに洩れた句を救済するページが月に1回あり、18日の「記者が選んだ『1句』」というところに掲載された。
さいたま市の公民館が、普通ならば見逃されそうな「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句教室会員の1句を月報に掲載拒否した事件に始まるこの動き。おかげでこんなにも平和と戦争を考え表現する人々の輪が広がった。当の公民館と教育委員会をノーベル平和賞候補に推薦してもいいくらいだ。ついでにKYの三原じゅん子は日本レトロ大賞で決まりだ。いや、パープリン大賞か。
冗談はさておき、東京新聞によるこの「平和の俳句」募集、当たりであった。折しも3月10日大空襲の日を迎え、戦争で肉親を失ったり自身が理不尽な忍従を強いられた体験が、それぞれに強烈な句を生み出している。手記や語りではうまく表現できなかった想いが、馴染みのある俳句によって参加するこの場で燃え上がったのではないだろうか。むろん反対に「ほっこり系」の平和の句も少なくないが、意外に平成生まれで戦争など知らない若者の句がすごかったりする。

春の訪れとともに始まった私の肩こりだが、通りがかり人さんのコメントを手掛りにユーチューブを探し、肩こりに効きそうなストレッチを実践したり、枕の下にタオルを入れて高さを調節したりしたところ少し改善された。原因として考えられるのは、今までのコートをクリーニングに出し予備のコートを着はじめたのだが、これが固く重い代物で肩に大変な負担になる。中年までなら何でもないことでも老人には大きな影響があるということだ。そういう影響は、老人の場合、原因を取り除いたとしてもすぐには治らないし、思いがけないところに及んだりする。気を付けたいものだ。

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ホワイトデーブラックデー 

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土曜日。朝7時頃、寒くてかなわず目が覚めてしまった。掛け布団は十分手当てしたつもりだったが空腹も手伝ってどうにもならない。起きて朝食を摂り新聞をざっと読んで二度寝したら目が覚めたのは正午だった。睡眠不足の調節にはこれくらいがちょうどいいか?

昼間、1階でエレベーターに乗ろうとするとお爺さんがロビーに入ってきて、私が開けているエレベーターに乗っていいものかどうかというようにきょろきょろしているので、どうぞと声を掛けた。「何階ですか?」と訊くと私と同じ8階だという。ちと見かけないお爺さんだが、世帯数が多いのでそういうこともある。「なかなか寒いね」と言うので、「なかなかね。日陰だと寒くて……」「帰ったら暖房入れなきゃ」「私など点けっぱなしですよ。時々熱すぎて消すけど」などと有意義だが他愛ない話をして別れた。
第2幕。夜8時過ぎ、当方はバッグとスーパーの買い物を下げた格好で、同じエレベーターに推定40代半ばくらいの女性と乗り合わせた。両手がふさがっているものだから「8階お願いできますか?」と頼むと、女性はボタンを押したが無言。こわばった背中に、いやだな、なぜ頼むの、話しかけないでというような雰囲気がプンプンする。降りるとき、いやみったらしく「どうも、助かりました!」と声を掛けておいた。これが礼儀というものである。しかし対話を拒否する孤独な女の姿を見てしまったようで、後味がすこぶる悪い。エレベーターに乗り合わせたとき、ボタンの前にいる人に頼むのは暗黙のマナーである。人の肩越しに無理に手を伸して自分で押そうとするのは格好悪い。

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共立女短の岡部隆志先生から新著『短歌の可能性』を送っていただいた。シンプルな装丁が好ましい。古くは2004年から10年余、福島泰樹主宰の歌誌『月光』に連載された評論をまとめた、まことに刺激的な書物である。独特の緻密さで行きつ戻りつ進める論理には時に息苦しささえ覚えるが、著者自身、中国の少数民族を訪ね五七調の根幹を押えての裁断だからかなわない。一読し今日の短歌を巡る課題や論争がこんなにも多様化しているのかという驚きを禁じ得なかった。それというのも、この本が広範な目配りで今日的な短歌の課題を的確に拾い上げてくれているからなればこその感慨なのだが……。

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