猫に人生を教えられる 

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通りがかり人さんから思いがけない引きこもり宣言が出され、ショックを受けた。一気に涼しくなったのは天気のせいばかりではあるまい。Fs白クマ氏は相変わらずマイペースだが、山姥さんは身辺に大事が生じたか、このところ更新もなければコメントへの反応もない。岡部先生は調査で中国へ行ってしまったようだし、ブログの世界はいささか夏枯れ状態だ。

ときどき通る路地で猫に挨拶するのが楽しみだったが、先日の夕方、まずいことがあった。私の顔を見ると道の反対側に案内しようとする。そこにはエサ皿と水が置いてある。見るとエサは空っぽ。しかし私にエサの持ち合わせはない。彼(性別不明)はエサをくれとゼスチャーを繰り返したあげくに、私を見上げて甲高くウニャーーン(この役立たず!)と言ったきりどこかへ行ってしまった。不甲斐ない私は両手を合わせて謝るだけ。飼い主はまだ帰ってこない。私に飼い主の代りをする義務はないが、今後も彼(性別不明)と仲良くしようと思うならば、言われるとおりエサを持っていくべきなのだろう。不本意な役回りを強いられる人間社会と同じである。身勝手な猫に人生を教えられたようだ。しかし万事ダイレクトな猫の要求はむしろすがすがしい。

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新宿photographers’galleryで増山たづ子「ミナシマイのあとに」を観る。今はダムの水底に沈む岐阜県徳山村の日々を撮り続けた膨大な記録だ。増山たづ子は夫がインパール作戦で行方不明となり、一人農業の傍ら民宿を営んでいた。徳山村が水没することが決まると、彼女は国策に反対しても無駄、せめて記録を残そうとピッカリコニカを手に村の人々の日常を撮り始める。それは行方不明の夫が生還した時、無くなった村の様子を見せるためでもあったという。写真は29年間で10万カット、600冊ものアルバムに結実した。2006年、増山は88歳で他界し村もダムに沈んだが、作品は現在「増山たづ子の遺志を継ぐ館」に保管されている。
展示はプリントでダムが決まった後も続く村の何気ない日々を、プロジェクションでは村人が移転して廃墟となった村の跡を淡々と見せる。「ミナシマイ」とは「終わり」のこと、南部弁で言えば「ドットハレ」みたいな感じだろうか。共同体の喪失・崩壊に対する記録の力は、その後の3・11でイヤと言うほど思い知らされることになったように思う。増山たづ子は職業写真家でもなんでもないが、類い希な「関係の写真家」としてのポジションを確かなものにしている。
                 

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戦争を描く人々 

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19日の水曜日は横浜まで足を伸ばし、『第41回 戦時徴用船の最期―大久保一郎遺作展ー』(神奈川県民ホールギャラリー)を観てきた。主催は日本殉職船員顕彰会。以前、テレビで取り上げていたので興味を持った。

戦時徴用船とは何か。太平洋戦争の内実とも言える南方進出のためには、兵隊や軍需物資を送る一方、南方の資源を日本へ運ぶ海上輸送路の確保が絶対条件であった。そのため日本の船と船員は皆、国の管理下に置かれることになった。商船・漁船・機帆船のすべてが戦時徴用船となったわけである。満足な護衛艦も付かずほとんど丸腰だったこれら海上輸送の民間船舶は、米潜水艦による魚雷攻撃の絶好の標的となり、7,000隻(内、商船は2,500隻)が海の藻屑と消え戦没海員は戦死・戦病死・行方不明合せて6万人以上に達した。その死亡率は軍人のそれを大きく上回っている。
作者の大久保一郎は独学で絵を修め大阪商船(現・商船三井)の嘱託画家となったが、戦況が悪化し始めた昭和17年、社長から「次々に沈められる社船の最期を記録に留めるように」言われ、生還した船員から沈没の模様などを詳細に聞き取り「忠実に」描いたという。その数は約80点と言われているが、当時負け戦を暗示する絵を公然と描くことはできず、作業は社の一室で密かに続けられた。この頃の大久保は疲れ切っていたと娘が証言している。

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終戦を迎えてもこれらの記録画は人目に触れることはなかったが、昭和36年、台風が大阪を襲って中之島にあった倉庫が冠水、記録画は汚泥に埋没し損傷の激しいものは処分されたと言われる。さらに37年間倉庫にしまわれたままであったが、昭和57年、大ビル地下倉庫で発見され、汚れ傷みの激しかった記録画は専門家によって修復され終戦記念日の直前に37枚が甦った。同年12月、日本橋で初の絵画展が開かれ、これら貴重な作品がようやく国民の目に触れることになった。この他に作品が失われモノクロネガだけが残されているものがある。内、船名が分かるのは20点、13隻にすぎない。
大久保の絵は藤田画伯の想像で描いた大作とは違って克明な当事者の証言に基づいており、船の細部の描写、のしかかるような圧迫感、臨場感がリアルだ。火や煙に包まれて呻吟する船員、沈みかけなお応戦する防御火器、棒立ちになって海に吸い込まれんとする船の最期など、絵画ならではの記録性が遺憾なく発揮された希有な例であろう。一方、人物は適度に省略、デフォルメされ顔は判然としない。敵機の姿も描かれているが、船の描写に比べれば曖昧で迫力がない。あくまで対象は船だよと言っているかのようである。

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8月12日、TBS「千の証言」は大陸打通作戦(一号作戦)を取り上げていた。元従軍兵士が記録した画文集『零(ゼロ)の進軍―大陸打通作戦湖南進軍 死闘1400km一兵卒の壮絶な大記録』(上・下)が凄惨な作戦の実態を余すところなく描き出す。当初から補給はなく食料も生活用品も現地調達、すなわち中国人から略奪するのみ。道端には餓死した中国人の白骨が積み重なった。日本側戦没者の7割は戦病死と自殺だったと言われる。何のための戦いだったのか……戦争の無意味さが際立つ。
     

なぜか更新はいつも厄日 

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今年は本当に八方塞がりだ。土曜日の早朝、エアコンが寒すぎて目が覚めたのがミソのつき始めで、エアコンを切って寝た日曜日の明け方、水を多量に飲んだのでトイレに行きたくなり、起き上がろうとしたが足に力が入らずフラフラする。頭も痛い。これが熱中症かと思い、何とか歩けそうになった10時頃、バスで区の休日診療へ行く。熱が38度を超えていたので解熱剤をくれた。熱中症と思って行ったが、ただの夏風邪だったかもしれない。
腰も痛いと思っていたのだが、どうもおかしい。腰ではなく腿の下側が痛いのだ。それがだんだんひどくなり、とうとう夜中眠れないほどの痛みになった。健康雑誌を繙くとどうやら坐骨神経痛というものらしい。そこでいくつかの対処法をやってみたがいずれも効き目がない。約1分ごとにズキンズキンという痛みが襲ってくるのでとても眠れない。起きても痛く寝ても痛い。こんなに辛かったことはない。夜中に我慢できずに空きっ腹に鎮痛剤を飲んだので舌がザラザラする。実は数か月前から前兆があったのだ。尻の右側がちょっと痛かった。固い折りたたみ椅子に腰掛けているせいだろうと思っていたが、あるいは椅子が引き金になったのかもしれない。坐骨神経は人体最長の末梢神経だという。しかし、こんなことでもないとその存在もありがたみも分からない。
午後、バスで前に行ったことのある整形外科へ行くと今日から休みだという。止むなく近くの別の整形外科へ行くと、ここも休みの前ですごく混んでいる。30分ほど待たされたあと診察、飲み薬と塗り薬を処方された。注射でもしてもらいたいくらいだったがそれはなし。マンションと一緒にできた比較的新しい整形外科なので中は広くきれいだ。先生は体育会系の風貌で診察はテキパキしている。ただ、病名は聞きそびれた。たかしくんに叱られそうだ。

ともかく、こういう諸々の不調でやるべき事が延び延びになってしまうのが困るしもどかしい。夏風邪が長引いているのか頭もスッキリしない。早く思い切り活動したいものだ。

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