二ヶ領用水(上流)を歩く 

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木枯らし1号の吹いた日曜日は久々の川歩きで川崎まで出かけた。川崎の高津駅から宿河原駅まで歩く予定だったのだが……ま、その経緯は後述するとして、今回は参加者が少なかった。八王子のS氏はお母さんの面倒を見るため、方南町のH氏は腰痛が激しくてそれぞれ不参加、3人組のうちMさんも不参加で、結局4人だけになった。

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今回の川は二ヶ領用水。2002年に登戸まで一度歩いているし、下流も武蔵小杉まで2010年に歩いているお気に入りの流れだ。二ヶ領用水は家康の命を受けた小泉次太夫が14年掛かって多摩川から水を引いた農業用水で、川崎領と稲毛領の2つの領地を潤したからこの名前がある。川崎市最古・最長の用水路である。田園都市線・高津駅から上流へ歩き始めるが、用水は家並みの中を窮屈そうに流れる感じ。両側の歩道はきちんと整備されて歩きやすい。間もなく大石橋で大山街道と交差する。大山街道は江戸時代の重要な往還だ。続く濱田橋は昭和の陶芸家・濱田庄司に因み、「春去春来」の陶板が付けられている。246号線を用水は暗渠でくぐり我々は歩道橋で越える。

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少し行くと木立が見えてそこが久地円筒分水だ。前に見たときより周りが整備されてスッキリしたが、囲んでいる針金の柵があまりにもガッチリとしすぎて写真が撮りにくい。円筒分水とはサイフォンの原理で新平瀬川を潜った用水の水が、流量にかかわらず正確な比率で分けられるように工夫された装置だ。あふれた水がコップの縁を乗り越えるような状態を絶対水深と言うが、絶対水深の状態では円弧の長さに比例して分水される原理を使っている。当時の神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長・平賀栄治の設計で昭和16年に完成した。これにより長年の水争いは解消したが、現在は役目を終え有形文化財として保存されている、傍らに平賀栄治の顕彰碑が建てられていた。写真の水草のある真ん中の円筒から用水の水が吹き出し、外側の円筒で分けられる。ペットボトルなどが浮いているのが興ざめだった。

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そこから新平瀬川を渡り久地駅まで歩く。だだっ広い風景になり、用水の水も増える。この水の円筒分水へ行かない分は新平瀬川へ流されるのだ。いい加減歩いてやっと久地駅前に着く。そこから支川を宿河原駅まで歩くつもりだったが、反対論が出てここで打ち切ることにした。久地駅前には飲み屋がないので南武線で溝ノ口まで出て、花の舞で打ち上げとなった。花の舞のあるあたりは何だかアジア風の飲み屋街で大衆酒場が並んで繁盛していた。

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今回は3.5キロくらいか。短いが充実していた。地図はいつものデジタルミリオンでは「圏外」になって大雑把なものしか出せず、別にグーグルマップを使って細かい縮尺のを用意したが、あまり使う場面はなかった。
       

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洗濯と信仰と 

曇りがちな空の一日、懸案だった下丸子の五十嵐健治記念洗濯資料館を訪ねた。

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五十嵐健治はクリーニング白洋舍の創設者であり、同資料館は白洋舍本社内にある。五十嵐は明治10年新潟県に生まれたが、生後8か月で生母と離別し5歳にして五十嵐家の養子になる。日清戦争が勃発すると軍夫を志願して従軍し朝鮮半島へ渡り、戦後、三国干渉に憤慨してシベリアへの渡航を企てるも北海道で裏切りに遭い、開拓地のタコ部屋に入れられる。寝巻姿で脱走し70キロ離れた小樽まで逃げ自殺を考えるが、そこの宿で中島佐一郎というクリスチャンの旅商人に出会い福音に接し洗礼を受ける。牧師を志して上京するが神学校には入れず、紹介により三越に入社。明治39年、10年勤めた三越を辞し自身の誕生日3月14日に日本橋に白洋舍を創立する。当時、洗濯屋は蔑まれる職業であったが、「人の汚れたものを綺麗にしてお返しする、これこそキリスト教徒の仕事にふさわしい」と語り信仰を土台にした経営を行った。その後、水を使わないクリーニングの研究に着手し、明治40年、日本で初めて独自のドライクリーニングの開発に成功。しかし、間もなく不慮の火災で大火傷を負い会社は廃業の危機に見舞われている。

資料館は多摩川のガス橋近く
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五十嵐健治については三浦綾子の「夕あり朝あり」(東京新聞他に連載された後、新潮社で出版)にその波瀾万丈の半生が克明に描かれており、私が白洋舍の創立者を知ったのはそれを読んだからであった。三浦は病床にあった独身時代、伝道に専念していた五十嵐の来訪を受け、そのことが後に彼女のキリスト教に入信するきっかけになったという。しかし私がここへ行こうとしたのは、例のアイヌ娘とのロマンスを披露した私設博物館のおじさんが、年内にもう一度アイロンの展示を企画して奮闘しているので手伝ってやろうと思ったからである。資料館のスペースはそれほど大きくはないがアイロンの展示もほどほどあり、受付のお嬢さん達も親切だしはるばる行ってよかったと思っている。もっとも年表とアイロン以外の展示品はほとんど見ていないが……。
五十嵐健治の一生を概観して思うのは、魚座の星に生まれた人ならではの博愛と自己犠牲の精神が遺憾なく発揮されたものであると同時に、多くの人との縁を欠かさず生かす力の卓抜さである。そのへんが我々凡人との差であろう。五十嵐は戦時下のキリスト教弾圧にも大変苦労したらしいが、後半生を伝道に費やし95年の生を全うした。

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短歌談義の季節か 

A氏に誘われて大田区の某スナックへ行ったところ、たまたま短歌の話になり、ママが「うちのお客さんで東京歌壇の佐佐木幸綱先生の方に出している人がいるわよ」と言い出したのには驚いた。それならばライバルではないか。家に帰って最近の新聞をひっくり返すと、その人はかなり前から頻繁に歌が載り、よく月間賞にも採られているようだ。私みたいなひねくり回した歌とは違い、平易な詠み方に好感が持てる。ライバルなどではなくまさに先輩格だ。ご母堂は俳句でしばしば載っているようだし、親子で活躍とは憎い。そのうちお目に掛かりたいものである。秋は短歌談義の季節だ。

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前回の帰省の記事にたかしくんがこんなコメントを寄せていた。
「〈独占資本〉の地域支配戦略をいやというほど見せつけられた。まさに〈なんでもやる〉のです。その結果、この土地は何を得たのだろう。人口が減少し、高齢化し、町はすっかりさみしくなっただけなのでは」。
父が逝ったあと自分で各種の領収書を見ていたら、電気の領収書に月数千円の加算があることに気付いた。電源立地交付金だか何だかのお金であった。現在は町の取り分が多くなって3千円弱だが、隣に核燃施設があるからこそのお小遣いに違いない。
私がまだ八戸にいた頃、総合コンビナート計画として始まったむつ小川原開発は石油備蓄基地に変り、いつの間にか核燃施設の集合体、いわば核のゴミ捨て場になりかかっている。野辺地はじめ周辺自治体はインフラを支えてきたが報われず、六ヶ所は日本一豊かな村と言われるようになった。その分、地域社会の浸食も半端ではなかろう。原燃反対派の村民が村議になり、推進の旗を振っている様もテレビで報じられた。土地を売った金が尽きても行くべき場所はない。昨年、三村青森県知事は「再処理工場を稼働させないなら今までの核廃棄物を持って帰れ」と国に勘違いの恫喝を行った。その高レベル放射性廃棄物のガラス固化実証実験は10回も失敗しているのに止められない。何度失敗しようが永遠に続けるしかないかのようだ。

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先日、新宿のプレイスMで開かれた樽矢敏広写真展「水とあるく」は、汽水湖沼の点在する風景を淡々と写しており意外にも舞台は六ヶ所とあった。2012年から14年まで六ヶ所に通ったという。作品の底には「人間が自然をコントロールすることはできない」という考え方があり、「汽水沼の水は潮の干満に合わせて海と陸を往復します。この水の往復はずっと遠い過去から、人々の小さな営みを飲み込んで、はるか未来まで続くことでしょう。僕やあなたがいなくなった未来まで。」とも書いている。作者の写真は核燃を告発したりはしないが、「水」という地史からの視座が論争をつかのま相対化してくれる。

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