口語短歌のダレかた 

進開橋から西を見る
小名木川

文語短歌が減って口語短歌が増えているという。つまりは文語短歌の作り手が減っているわけだが、その昔短歌と言えば文語短歌が普通で、鳴海要吉などわざわざ口語短歌と銘打って流通したのである。今、古文は大学受験の役に立たず従って高校で履修するコースも少なく、若者が古文に触れる機会はすっかり減ってしまったというのだ。この問題を論じて今年の現代短歌評論賞を受賞した、梶原さい子の「短歌の口語化がもたらしたもの」を斜め読みしてみた(「短歌研究」10月号)。

梶原は独自のアンケート調査によって口語は「子どもっぽい」、文語は「雰囲気がある」「かっこいい」という印象を引き出し、子どもっぽい口語短歌の隆盛を一種のネオテニー(生物が大人になっても幼児期の特徴を併せもつ現象)に擬える。社会が幼児志向をもっている例として、一見幼児のような人物を描くポップアートの奈良美智らを上げている。

一方、過去を表す助動詞が口語では「た」1つであるのに対し、文語は「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」などと「り」の音が多く、R音のクオリア(知覚情報が脳に届く印象)が強いと説く。以下私の意見だが「き」の音も大変強い。また過去形が「た」1つという制約は散文も同じで、文末を苦労して平板にならないような工夫が求められるところだ。子どもの日記がすべて「……ました」で終わっていることを考えればよくわかる。むろん上述の助動詞は同じ過去でも様々なニュアンスの違いをもっているが、言い替えれば口語はそういうニュアンスを捨象し、または前後の語にそのニュアンスの違いを負わせてしまったのであろう。

もう1つ口語短歌の特徴として、自然を詠むことが減っているという。人工的環境が我々の自然だよ、と言われそうだが、ここでいう自然とは太陽の巡りがつくる春夏秋冬のことである。本来人間の意のままにならないものが自然なのだが、それを詠み込むことが少ない現状とは、ケータイがどうのコンビニがどうのという小世界に閉じこもった平板な歌が多く生まれているということだろう。俵万智のエピゴーネンは腐るほどいる。他方、文語短歌の「雰囲気がある」「かっこいい」という印象は、こうした日常に距離をおき、等身大の世界ではない何かを詠むことからきたものとも言える。

梶原の文をだいぶ切り刻んでしまったが、彼女の論考の欠点は口語短歌固有の問題なのか現代の短歌の問題なのか判然としないところがある点だろう。アンケートにしてもそのサンプリング方法が明らかでない。しかし、優れた口語短歌がつまらない文語短歌より高得点であることはいうまでもなかろう。
    

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コメント:

古文の素養

 今では文庫本はすべて現代仮名遣い、日本語の古典は大きな本屋でも棚から消えてしまっています。二昔前までは新潮社の古典集成や岩波の古典の体系など数は少なくとも置いてあったが、最近はまず見ることはなくなりました。
 源氏物語などのいわゆる女房文学は、私はなかなか手に負えませんが、それでも何とか読みこなせます。「下手な鉄砲も」式に手当たり次第強引に読んでいたらいつの間にか、女房文学以外は何とか読めるようになっていました。「源氏物語」や「とはずがたり」も読み通してはいませんが、最低限の注釈があれば何とか大意は掴めます。
 大学の入試に古文が不要となったのでしょうか。最近は高校生が電車の中で読んでいる参考書を見ても古文の参考書は見かけないような気がします。とてもさびしいですね。
 日本の古代国家成立や文字社会の成立は7世紀と新しいですがそれでもその前後の詩歌が万葉集という形で古代の息吹を残している歴史はまれなのであり、古文の素養がもっと流通するようになってほしいといつも思っています。

  • [2011/12/02 20:33]
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  • メタボの白クマ
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Re: 古文の素養

入試に不要でないにしても、それを必須とする学科は極少だと書いてありました。文語を文語として読み書きするのは今は詩歌のみ。こういう文化は日本だけではないでしょうか。いつまでも大事にしたいものです。

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