寒中お見舞い 

野辺地


金曜日は午後から久々に一ツ橋の某社へ行ってきた。少なくとも昨年1年間はお呼びがなかった現場である。決して仕事が増えたわけではなく、内部でスケジュールのやりくりができなかったせいらしい。ルビのチェックで総ルビのゲーム本(のゲラ)を見続けたら目がおかしくなった。ここの最大の欠点はコーヒーの自販機がないこと。缶コーヒーならあるが、私は缶コーヒーはコーヒーとは認めないし絶対飲まない。7時過ぎ終了。エレベーターホールの窓の真下に共立高校のテニスコートが見える。土曜日は眼科へ行く。右目の視力がかなり悪い、というより中心部に視野の欠損があってランドルト環が見えづらくなっているようだ。視野検査でも中心のオレンジ色のLEDの中にグレーの欠損部が入り込み、日食のように見える。これは前回(昨年)にはなかった現象だ。しかし、先生は相変わらず病変は認められないという。西洋医学では検査して異状が認められなければ気のせいにされ、治療も受けられない。西洋医学は症状を仮象と見なし、裏にある本質を捉えようとする。その点、現象学的な東洋医学のファジーなアプローチとは正反対だ。

仕事仲間が神経鞘腫という聞き慣れない病気で入院した。腰の痛みで休んでいると聞いてはいたが、単なる腰痛ではなかったわけだ。手術して2月半ばまで入院する予定とか。彼は前にも九死に一生の大病をして入院生活を送った。だがその後も布袋腹の肥満体質は改善されなかったようだ。しかしフリーが入院したらたちまちピンチに陥るのは火を見るよりも明らか。健康の問題も金銭の問題も、関係の問題もある。フリーでござると勝手気ままな暮らしを送ってきたツケが回ってきているのは彼だけではない。今日はひときわ寒い。
    

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コメント:

今日は殊更に寒い…

ガラケーの画面ではよくわかりませんが、野辺地の石仏、お不動様ともう一体は何でしょうか。
雪を払いお鏡をお供えしているところが微笑ましく、橙(蜜柑!?)の色が愛らしい…。

ところで、目の状態が悪くなっているのに病変を認めないのであれば、セカンドオピニオンを仰ぐのもいかがかと…。
例えば、四谷しらと眼科や駿河台の井上眼科などのような多くの症例を扱う専門医に診察してもらうのも一つの方法と思います。
視力は仕事への影響は勿論、QOLにも関わってまいりましょうから。
くれぐれも、お大事に<(_ _)>

Re: 今日は殊更に寒い…

右が青面金剛、左が不動明王です。1768年寄進。ここは昔の街道筋なので、道祖神的な役割を与えられたのであろうと言われています。この先ずっと行くと一里塚があります。

目のことはセカンドオピニオンというか、場合によっては大学病院などへ変わることも考えなくては。井上眼科などは近いのでいいかもしれません。

確かに寒い

とりあえずは山姥さんの推奨する井上医院がいいと思われます。おそらく細かい字を見続けているためだと思います。ここでがんばれなんて、言えないが、行ってみることです。うずくまってても、開けません。自愛&自愛。

Re: 確かに寒い

ありがとうございます。細かい字を見続けたせいか、細かいモザイクを透視しようとしたせいか……。ま、楽しみが減っても仕事ができなくても困りますからね。というか、仕事も少ない今、楽しみの一つになってます。吉日を期してお薦めの眼科へGO!

庚申、青面金剛

何回聞いても、読んでも理解できない信仰の由来・内容です。
ということで解説も読んでもわからないので解明は諦めました。
ただしこのような像を見るとホッとする何かを感じます。
雪の中というのが、いいですね。
うろ覚えながら、山形の天童付近でも見かけた記憶があります。

  • [2014/01/21 00:20]
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  • メタボの白クマ
  • [ 編集 ]
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Re: 庚申、青面金剛

私もなかなかのみこめずにいます。山姥さんに聞かれて慌てて町史など繙いてみた次第です。ただ立っているというだけでいいのではないでしょうか。

権現様

日本の神様の神号の一つで、仏教の佛が仮の姿で現れたものだそうです。「権」という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で佛が「仮に」神の形をとって「現れた」そうだ。明治4年7月に大納言の官職は最終的に消滅したが、某ブログの発信者に「大納言」なる御方が混沌とした現世で、我ら貧乏年金生活者の安寧を願ってくれるために、再び、みたび現れたのかな。写真を見ているとそんな思いがして心が休まるね。

Re: 権現様

そうです。年金生活者の安寧を祈る大納言です。

それは冗談ですが、ここには4つの「神体」があります。1つは写真の道祖神的な石仏、集会所の中に蒼前舎、その横に稲荷神社、蒼前様と同居する形で権現様(いわゆる獅子舞)の講があるようです。幟に書いてあるのはその権現のことです。野辺地のパワースポットともいうべき場所でしてね。
インドの仏様が日本の神様に形を変えて現われたという本地垂迹説は江戸期まで広く流布し、すべての神社が権現を名乗っていたようです。しかし維新の廃仏毀釈で廃れました。野辺地弁で人をさげすむ「ほんじなし」はここから来ているそうです。

蟻とキリギリス

老いて仕事がなくなって、もしくは働けなくなって困窮する人は多いのだろう。それは、フリーでござると勝手気ままな暮らしを送ってきたツケ、なのだろうか。
格差社会や派遣労働、年越し派遣村といった話題が出る度に「若い時にちゃんと働かなかったツケが・・・」とか、「会社に拘束されるのが嫌で好きで派遣やってるんじゃないのか」といった反批判が必ず出る。要するに、夏遊んで冬苦しんでいるキリギリスじゃないのかと言いたいのだろう。福祉の課題には常に蟻とキリギリスの問題が付きまとう。
確かにそんな一面もあって、A新聞のような同情一辺倒の論調にもなじめないのだが、威丈高にこういう言説を述べたがる者が蟻だったためしはない。キリギリス的生活から更に一層キリギリス的生活を送っているのに限ってこういう御託を並べたがるのだ。
今の社会は、そんな皮相な言説で形が付く情況をはるかに超えてしまったということだけは押さえておくべきだろう。

Re: 蟻とキリギリス

> 老いて仕事がなくなって、もしくは働けなくなって困窮する人は多いのだろう。それは、フリーでござると勝手気ままな暮らしを送ってきたツケ、なのだろうか。

いいえ、「老いて仕事がなくなって、もしくは働けなくなって困窮する人は多い」でしょうが、それがすべて文章の後半に繋がるわけではありません。私は彼がそういう厳しい情況に立たされているのではということを誇張し、かつ自省をも込めて書いたまでで、拙文を拡大解釈し無制限に一般化されては困ります。世相的な因果応報論ではないはずですが。

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