続・ある闘いの軌跡 

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第一次小繋訴訟の指導者小堀喜代七は、慶応3年(篠崎本では4年)に南部藩下級武士村田平次郎の次男として生まれた。だが彼の出生直前に父はわずかな食い扶持と武士の地位を失い、母は彼を産んですぐ他界している。それを見かねて引き取ったのが子のいない叔父で豪農の遠藤家であった。ところが、遠藤家に実子が3人生まれると喜代七は邪魔者になり、14歳の時、養家を出され八戸町の呉服屋の奉公人となった。喜代七はよほど才能があったのであろう。19歳で番頭になり、20歳の時独立して結婚。村田姓に戻って三戸町に雑多な商品を扱う行商の店を持った。その時の競争相手が小堀甚太という平糠の大商人であった。喜代七は甚太に望まれてその養子になるとともに、妻子を離縁し甚太の長女と再婚した。甚太は喜代七を函館の開拓地に赴任させるが、明治25年、甚太が海難死したため呼び戻され、まだ幼少の甚助の後見人として小堀家の財産を管理せざるを得なくなった。
その過程で彼は農山村の相談相手として種々の係争・紛争に関わり、裁判や警察の何たるかを知るとともに、「小堀のジサマ」と呼ばれ頼られる一方で、「山師」「三百」といわれ「平糠天皇」の渾名を頂戴する存在となっていった。

小繋の村人に頼まれた喜代七は、村人に『民法原論』という書物を貸し与え、村人の前でこう説いた。「山は初めからあったではないか。山に入る権利は入会権といって誰が何と言ってもなくなるわけではない、だから民法でもそれを保護しているのだ」と。村人は「入会権」を知って結束を強くし、裁判で闘う方向にまとまった。鹿志村亀吉も必死だった。手なずけていた区長代理・片野源吾の息子源之丞らを使って村人を切り崩す一方で、私兵である「棒組」の活動を強化し警察と一体となって裁判に持ち込もうとする者への暴力を公然と行った。村は鹿志村派・反鹿志村派・傍観者の3つに分れた。
大正6年10月、小繋入会権訴訟は立花源八ら12名を原告とし、鹿志村亀吉ほか村人11名を被告として提訴された。しかし、原告となった村人の生活は言語に絶するものであった。売れる作物は全て売り尽くし、山に入って桑の実や栗を拾い蕨の根を掘り起こして食べるような暮らしが続いた。鹿志村側に付いた村人の暮らしは目に見えてよくなった。喜代七も裁判に本腰を入れるために平糠の自宅を出て小繋に居を移した。そのため自ずと小堀商店から身を引くことになり、家族は経済的に塗炭の苦しみをなめることになるのである。
それだけではなかった。大正8年元日、喜代七の些細なミスを捉えた警察により彼は突然逮捕された。面会は拒絶され村人の差入金は行方不明になった。1か月後に釈放されるまで、警察は彼に執拗な拷問を加えた。ようやく釈放された喜代七は体力を回復すると人々の前から姿を消した。闘いの圧殺を恐れ、以後5年、時効完成までの潜伏逃亡生活に入ったのである。喜代七は密かに東京や仙台へ足を延ばし、民衆弁護士布施辰治との出会いも果たした。村人は完璧に喜代七の5年間の逃亡を守り通した。

この続きは小休止の後に掲載したい。なお、整合性を取るため前号の記事に若干手を入れたことをお断りしておく。
  

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コメント:

これは天狗党以来の大物ですな

小堀氏が、妻子と離縁したのが、なぜか解せない。大筋とは関係ないのだろうが、ヘンなことが気になる。この闘争はまだまだ戦後も長く続くのですな。人の生涯には結論を得られぬまま死んで行かなくてはならない、長い戦いもあるのですな。この長さだけで、私などはめげてしまう。まいった。なぜか、まいる。

Re: これは天狗党以来の大物ですな

小堀喜代七は昭和24年に亡くなりますが、最高裁判決が出るのが昭和41年ですからね。
気の遠くなるような時間が流れています。

喜代七がなぜ最初の妻を離縁したのか、明かではありません。後妻との息子達にもその経緯は知らされていなかったということです。単に商売のためだったとは思えませんが……。

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