青森空襲を想う 

小名木川

7月28日は青森空襲の日である。昭和20年の大戦末期、60機を超えるB-29が中継基地である硫黄島から発進して北辺の街を襲い、約70分間で83,000本もの焼夷弾を投下。市街地の約9割を焼き尽くした。犠牲者は約700人から約1800人まで諸説あり確定していない。この空襲で私の生家も焼かれ、借地に築かれた生活は壊滅して、野辺地でのままならない暮らしを余儀なくされることになった。当時私は1歳半、父は徴用で東京にいたが、ともかく皆無事であったことがなによりといえる。
アメリカ軍による日本に対する戦略爆撃。当初は高空から軍需施設を狙ったが効果は薄く、低空からの市街地に対する絨毯爆撃に切り替えた。非戦闘員・非戦闘地域への爆撃はジュネーブ協定違反ではないのか? 日本の軍需産業は家内工業の形で市街地に散在しているというのがアメリカの(司令官ルメイの)理屈であった。そのご都合主義は追及されることなくベトナム、イラク、アフガンで繰り返されていく。
アメリカが日本の市街地への爆撃に使ったのはナパーム焼夷弾とテルミット・マグネシウム焼夷弾だが、実際はそれを38本ないし48本束ねて投下する、いわゆる集束爆弾(クラスター爆弾)であった。集束爆弾は一定高度で散開し広い範囲に被害を及ぼす。青森空襲では初めて新型焼夷弾M74を束ねたE48 500ポンド集束焼夷弾が使われたことで知られる。この爆弾はナパームにリンを加えて着火を確実にし、煙が引き起こす混乱と消火活動の妨害をも狙ったものである。どれも人間に当たればひとたまりもなく、油脂による火災に水での消火は不可能だった。生きたままの人間が燃える地獄が現出したのである。

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